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悟りとは、体感の積み重ねなのではないか。

公開日: : 最終更新日:2014/08/16 ヴィパッサナー瞑想, 僕の取扱説明書




 

ヴィパッサナー瞑想の入門10日間に参加してから、”enlightment (悟り)”という言葉が頭に残っていて、一年程前に買いあさった仏教の本なり資料なりを読み漁ってみていて。

 

現段階は、”悟りを開きたい”という欲なのではなく、単純に、”悟りってなんだろう……?”と気になっているだけだと思う。未だに、”悟りを開いた人”とか聞くと、ちょっと嘘っぽく思えてしまうし。

 

 

それでも自分なりに考えてみて、スピリチュアルな話が出来る人とも意見を交換してみたりして、いくつかの”悟りとは”という定義付けのアイディアは出てきていて。そのいくつかの例を出すと

 

• 悟りとは、幻想である。

— 悟ったと理解した瞬間に、その悟った状態を維持しようとする過程で悟りを失うのではないか。これは未だに僕が悟りを”点”で考えてしまっているからかもしれないけれど、逆に言えば、”線”の継続する悟りは、なかなかイメージしにくいのです。

 

• 悟りとは、諦める(手放す)ことである。

— 確かに、諦めて、欲だったり執着だったり嫌悪だったりを手放す事で、悟りに近い状況には辿り着けると思うのです。ただ、それは妥協の産物であって結局は悟っている状況を”創り出している”だけなんじゃないかなっという考え方にも至って。ある程度の妥協は日々に平穏を齎すけれど、一線を超えた妥協は堕落に繋がるとすら思っているのです。

 

他にも考えたり議論したものはあるのだけれど、ふと今朝のTwitterに書いた言葉に、我ながら気持ちがスッキリしたので、ここに悟りのヒントがあるんじゃないかと思ったりして、今日のブログのトピックに選んでみたわけです。

 

『感情を抑える日々から、感情を観察する日々にシフトしてから、生きる事が楽になっていて。』

 

 

これは単純にヴィパッサナー瞑想の核である、”Equanimity (平静さ)”と”Awareness (気付き)”を日々の瞑想において意識しまくった結果、感情を抑えて殺してしまうのではなく、怒りだったり喜びだったりと言った感情を、客観的に観察して、その流れを自覚できた感覚があった朝に書いた言葉でした。

 

典型的な天邪鬼の僕が、ヴィパッサナーの後、なんとか頑張って、毎日朝晩の1時間の瞑想は続ける様にしています。現実は毎日出来ている訳ではないし、厳密に1時間ではなく、四捨五入して1時間程度の瞑想ですが、それでも距離を置いて眉唾物にみていた瞑想が、日常の中に溶け込んできたなと思った時に紡ぐ事ができた言葉でした。

 

vipassana-1

 

悟りへのプロセスなんてものがあるとすれば。

 

”物事を知る”というプロセスには、3段階あると言われています。

1. ”知っている”状態

— 第三者から聞いたり、本で読んだりして『知識』として知っている状態。

2. ”理解した”状態

— 議論をしたり、自分なりの意見を(1)の知識から積み上げて理解して自分の『知恵』となっている状態。

 

そして、最後に……
3. ”体感した”状態

— 実際に身体を使って覚え、体験し、その物事の知識そのものが『体験』となっている状態。

 

 

僕は嫉妬に塗れた人間でした。過去形で書いているけれど、きっと今でも嫉妬心は強い人間です。ある時、お金を儲けて成功した方が、お金の儲け方について僕に話をしてくれました。

(1)の”知っている”状態になった僕は、その知識を得て、知って、羨ましいと思います。でも、そのプロセスに疑問を感じて成功者に質問を投げかけます。その結果、疑問が解消され、(2)の理解した状態になり、知恵として蓄えられ、実際に行動する際に貴重なアドバイスだったりヒントとして有効に使われる事になるのです。

 

でも、(3)の体感した状態を経ない限り、僕がお金持ちに対する嫉妬から完全に抜け出す事はありません。なぜなら、知識として、そして知恵として、「僕でもお金持ちになれること」は僕の中に存在していますが、経験という体感がない為に、どうしても現実味が薄くなってしまうのです。

 

 

拙い一例を出して迄、こんな”当たり前”に思える概念を紹介しましたが、案外、この”当たり前”を見落として僕らは生活をしてしまっているのだと思うのです。

 

世の中には奇麗な言葉が溢れ、あたかもその言葉そのものがチカラを持っているかの様に思ってしまうのですが、結局は体感をしてこそ、その人の身となり、その繰り返しが、もしかしたら悟りに繋がって行くのかなと思うに至ったのです。(ここで仏教の、”正しさ”の概念がとても大事になってきますが、それはとても長くなってしまうので別の機会に)

 

 

結局、僕はどう変化したのか。悟りへの一歩。

 

日々の瞑想と、そしてヘミシンクのテクニックを活用するなかで、僕は日常に平穏を見い出す事ができています。今迄の30年間が嘘の様な、静かな日々です。今年の春にガイド等スピリチュアルな存在とコンタクトが出来る様になって、6月にその能力が消えてしまって、当時は焦りに焦って平穏とは遠い迷いの中にいましたが、今では能力があるかないかということよりも、もっと大切な平穏&平静さを日々の中で感じる事が出来る様になりました。

(一応、能力は戻ってきましたがw)

 

でも……、悟ったとは言えません。そんなレベルには無い。

と同時に、まだ未熟だけれども、人のチカラにはなりたいとは思うのです。今迄以上に、明確に、力強く。何かの能力や技術を提供する事で自分の存在意義を確認するためだけの手助けではなく、ましてや自分の生活を豊かにする為だけの手助けではなく、人様のチカラになりたいという気持ち。勿論、上記の自己存在意義とかお金とかっていう自分軸も持ち合わせていますが、その割合は変化しています。6年くらい前だと、完全に自分軸だったですしね(笑)

 

春にスタートしたFacebookグループとこのブログでの、「ガイドとコンタクトしまっせ」プロジェクト。

やっと、以前程の明確さではないにしろ能力も戻ってきたので、なんとか再開する予定を立てています。学校の授業が始まったりで、ちょっと忙しくなってしまいますが、始めた事をしっかりと形にする事は、体験をさせてもらうという意味合いでもとても大事な事ですし。

 

と同時に、「スピリチュアルなことは、全く起こらないかもしれないけれど」という前提を理解してくれて、その上で、「誰かに話を聞いて、それなりの返答が欲しい」と思っている人には、僕はチカラになりたいと思うのです。こういう事書いてる段階でちょっと怪しいので、まずは僕の知人、あるいは知人からの紹介者に限らせてもらおうかとは思っていますが、もし興味があったりしたら、ブログを通してでも、僕の他のSNSを通してでもご連絡頂ければ嬉しいです。

 

それなりにこの半年間、相当な時間自分と向き合ってきたので、だいたいの事にはお話ができるかと思っています。そして、そのお話する事そのものとその後の”自分自身の気持ちと身体の観察”こそが、僕の中での体感となり、あるいは悟りに繋がって行くのかな……なんて思うのです。

 

 

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